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パキスタン講演(神経内科関連、脳波)の旅
 

パキスタンに2週間、講演の旅をしたときの日記を纏めてみました。時間がゆるせば、読んでみてください。


私は、大学生時代に、ブラックジャックのように、医師としての腕を上げ、世界の各地に、それぞれ1ヶ月ほど滞在して、現地の人と仲良くなり、医療を生活の糧として、2年ほど、放浪したいという夢を持っていた。ところが、故あって、内科系に進んだ。それも、頭で勝負する神経内科であった。私は、どちらかといえば、頭が悪い、特に、記憶力が悪い。人には、目入力の人と耳入力の人がいるらしい。耳入力が出来る人は、外国語の覚えも早い。授業を聞くだけで覚えられる。妻が典型だ。家族でアメリカに留学した2年間で、妻は、英語が、私以上に上達した。努力なしである。天才的である。ただ、努力をしないので、伸びない。世の中には天才的な人はいるが、多くの人はたいしたことない。なぜかというと、そういう人は、努力しなくても、ある程度出来るので、極めようとしないので、器用貧乏になってしまう。皆からすごいね、と、もてはやされるだけである。 

私は、留学中、英語を上達させるために、日本人同士で徒党を組むのでのなく、アメリカ人としか交わらなかった。2年間で英語はペラペラになる予定だったが、世の中、思うようにならないのが人生である。オリンピックで金メダルを受賞した人が、ブログで、「練習は嘘つかない」と言っていた。まだ、まだ、人生を知らない。あなたより、真剣で、練習もしたのに、ダメな方が多い。練習方法が悪い、メンタルが弱いからと、反論される。長距離は速かったが、短距離は大の苦手である。私は、真面目で、恐らく練習の虫に成りえる。でも。オリンピックの短距離走に選ばれる確率は、地球より大きい隕石が地球にぶつかるより、可能性はない。ペラペラなる予定が、「ペ」で帰国することになった。ちなみに、4歳の息子は、6か月で英語で寝言を言うようになり、帰国時は、英語は、ペラペラになり、代わりに日本語はしゃべれなくなっていた。妻は、「ペラぺ」になっていた。友人の英語は聞き取れるが、それ以外の人の英語は聞き取れない。高校時代、社会の年代を記憶するために、何回も年代に下線を引いていたことを記憶している。典型的な、目入力の鈍才である。でも、努力してきた。人の3倍は努力してきた。それで、やっと人並みになると思っていた。でも、気がついたら、脳波については、一流の領域に達していた。徳島大学の臨床教授、best doctor(2007,2008), Who 's who in the world (2009, 2011), outstanding intellectuals of 2000, 21 th century (2010,2011)の賞もいただいた。その他にもいくつかある。例えば、留学中、脳波関係では、世界最高の賞であるハンスバガー賞の内定を貰った。でも、その頃は、人が人を判断した賞などいらないと思ったし、お国の先生から戻ってくるように言われたので、もらわず帰国した。今になって、とても、口惜しい。だから、残念ながら、頂いた賞の全部, 雑魚で、1星のミシェラン店以下です。それが、驚いたことに、パキスタンで、役にたった。現地の医師は、教授という言葉や賞に弱いようである。私は、開業医とは紹介されず、沢山の賞貰った教授と紹介され、現地の医師のあこがれを得て、多くの医師が記念撮影を求めてきた。

でも、1つで、すごいといわれるようなタイトル、例えば、東大教授、ハーバード大学教授、ノーベル受賞者などと、呼ばれてみたいものである。私のノー天気なところは、まだ、もしかしたら、ノーベル賞がもら得るかもしれないと密かに抱いて、研究を続行しているところである。

 いつのまにか、日頃の仕事に追われ、若いときの夢を忘れていた。気がついたときには、50歳半ばであった。もう、2年間も、発展途上国で、暮らしていく、体力も気力もない。でも、少しだけ夢をかじりたい。まだ、2週間ならば、テント生活でも堪えることが出来るだろう。60歳になったら気力も体力もなくなるだろう。焦った。2週間ならば、現在、経営しているクリニックの代診をお願いできるであろう。
 そこで、私が所属している学会の理事に話したところ、
ASIAN EPILEPSY ACADEMYが1月下旬2日間パキスタンで開催されるので、が行かないかと誘われた。普通は、2日間のワークショップだが、もし、2週間も現地医師に脳波などの講義をしてくれれば、現地の医師は大変喜ぶだろう、ということであった。パキスタン医師からの招待状が届いた。読んでいると、現地医師が、私の脳波の講義を楽しみにしていることが、伝わってきた。日本で教育講演をしても、会長や座長の先生に、「話す機会を与えていただき、ありがとうございます」という日本の学会の世界とは。雲泥の差である。喜んで引き受けた。

パキスタンの人口は世界第4位です。その97%がイスラム教徒である。気候は、最初に滞在したカラチは、日本の鹿児島、次に行ったラホールは福岡と同じような天気です。でも、砂漠地帯ですので、砂埃が多く、寒暖の差が大きい。キスタンは治安が非常に悪い国である。別の評議員もパキスタンでの2日間にわたるワークショップへの参加を表明したが、家族の反対で撤回したそうだ。家内も、龍司は普段は優柔不断だが、いったん決めたら絶対実行する龍司の性格を知っているので、お守りだけくれた。私は、アラブ海に面した大都市カラチと北の都会のラホールに行くことになった。カラチは以前首都であり、ラホールは歴史的な街であった。どちらも週に-2回は爆弾テロが起きていた。昔は、イスラム教徒が、アメリカや別の宗教の方(キリスト教徒、ヒンズー教徒など)を襲っていた。今は、厳格なイスラム教徒が、堕落した一般のイスラム教徒にテロを行う、いわば唯一神アラーの思し召しによる無差別テロである。イスラム教は自殺を禁じている。でも、アラーのために死んだ人は、アラーとともに生き続けるそうだ。私も、「よろずの神」に守られているはずである。海の神、山の神、川の神、町の神など、神様の数では負けていない。「みんなどうせ、死ぬんだし、死ななければ、なんとかなる」と言うのが、私のおかしな心の支えである。

 パキスタン行きが決まって、親しく話せる患者さんを診察しているとき、「すごいね」という言葉を期待して、「パキスタンに、2週間、いくつかの都市を回って、現地医師に、脳波をおしえることになったよ」と、内心、誇らしげに言った。すると、「なんでそんな勝手なことをするの!」と叱られた。そんなことで、怒るなんて、あの患者さんは、ちょっと変わっているからな〜と思って、2人目の患者さんに告げると、な、なんと、「ここの患者を治さんとだめなのに、何で? 先生も物好きね」、と怪訝そうに、それとはなしに、また叱られた。3人目からは、「みなさんに迷惑をかけるけど〜」と前置きしてから、「パキスタンの現地の医師が神経内科を習いたいと言っているので、2週間留守にします。でも、代診がいるし、なんかあれば、私の携帯に電話してもらえれば、簡単に連絡がつきます」と説明するようになった。でも、携帯には2つの落とし穴があった。

パキスタン行きが近づくにつれ、患者さんからは、「お大事に」と言われるようになった。何か、私が入院でもするような雰囲気だった。おかげで、お守りが4つになった。

パキスタンには、福岡空港から飛び立ち、台北寄航、香港乗り継ぎ、バンコク寄航、最終的に、13時間後にパキスタンのカラチについた。バンコクまでは超満員であった。でも、バンコクからは、乗客より乗務員が多くなった。龍司の席はエコノミーであったが、四方乗客はいなく、寝てカラチに向かった。心地よく、気分はファーストクラスであった。カラチには夜の1時についた。事前に、ホテルに電話したところ、飛行場からホテルまで、タクシーできてもらえば、問題ないですよ、ということであった。
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でも、現地の医師が心配して、迎えにきてくれていた。迎えがなかったならば、砂漠の中の飛行場で、朝を迎えたかもしれない。

 ホテルは、日本の空港より、厳重にチェックされた。ホテルの入り口の道路には、急カーブが作られ、徐行しないと入れないようにしてあった。柵の前でとめられ、トランクを開けられ、犬が車を一周し、ホテルの表庭中に入った。犬は、なんと爆弾捜査犬であった。イスラムでは犬は邪悪な動物と考えられ、ペットで飼っている人は見かけなかった。まだ、狂犬病が見られる。犬だけでなく、人間も発症し、涎をたらし、噛み付き、まるで、吸血鬼で、麻痺を起こし、死に至る恐ろしい病気である。玄関の前に、別の建物があり荷物と人間の金属探知機を通り、やっとホテルに入れた。そのとき、物々しい雰囲気を写真に撮ろうとしたが、ライフルを持った警察官に怒られた。ライフルから殺傷能力のある銃弾が出るようには思えないのが、日本人のノー天気なところであろう。

 ホテルは、アメリカ系列で、王様のベッドのように、上に屋根があり、ひらひらの飾り付けがあった。夜は寒いので、ヒーターをかけたが、30度にしても、冷たい風しか出てこなかった、お風呂につかりたいと思い、御湯を出そうとしても、適温が設定できず、冷たいか、非常に熱いかであった。携帯電話を充電しようとしたが、アダプターが役に立たない。部屋に時計は無い、テレビをつけても、イスラム言語で、チンプンカンプン、時間が推測できない、仕方ないから、交換に電話し、今の時刻を聞いて、morning call730amに依頼した。

 寒くて、いや時差のためか、まっ暗闇に目が覚めた。眠れないので、朝9時から開催されるAsia Epilepsy Academy、 Focal epilepsyについての、ワークショップでの発表の準備をすることにした。私の担当は、側頭葉てんかん内側型について40分、神経生理について40分であった。英語での発表なので、英語を復唱した。明るくなってきたところで、morning callがあった。7:30である。発表前に髭をそりたかった。ホテルには髭剃りがない。ホテルのサービスが悪い訳では無い。イスラムでは髭をそってはいけない、からである。フロントに、髭をそりたいと下手な英語で言うと、“イエッサー”と言って、連れて行かれた先は、なんと、ホテルの散髪屋であった。

 ワークショップは9時から始まる。15分前に会場に着いた。準備をしようとすると、関係者から、どうせワークショップは遅れるから、ゆっくり朝ごはんを食べてくるように言われた。

ワークショップには、日本人は、私以外2人いた。インドからも来る予定であったが、ビザが下りず、キャンセルになり、その分、1人の先生が奮闘された。私も時間を気にせず発表できた。2人の日本人は、英語が堪能で、そればかりか、原稿なしで流暢な英語をとうとうと話されていた。驚きである。私は、原稿を作ろうとしたが、30分であきらめた。なぜかと言うと、ワークショップの後日、日本人は私ひとりになり、現地の医師に1日4時間、4日間、英語で話さねばならない。原稿を書いていたら、寝る暇がなくなるからである。発表時は、原稿もなく、So〜〜、Now〜〜、Seeーー、沈黙、の連続のようだった。後で、知った話だが、パソコン(PC)で発表する場合、PCには発表時、自分のPCの画面にしか映らないノート機能があり、2人の日本人はそれを見て英語で発表していたのだ。kougi

私は、発表に際し、英語がpoorなのに、あえて、Question and answer形式に挑戦した。ホテルの周囲を散策していると、公園を示す表示板があり、public parkのはずだが、誤字で、pulbic parkになっていた。パキスタンは英国の植民地であったため、学校教育は英語で行われる。みんな英語は堪能である。でも、この表示板を見たとき、勇気がわいてきた。misspell
英語も適当でいいんだと。それで、
Q & A形式にしたのだ。そこが、私のいいところであろう。あまり、物おじしないのかな。下手な英語を聞いているより、スライドを見て、私の簡単な質問に答える方が聴衆も喜ぶと思ったからだ。私の英語を聞くより、スライドが聴衆にとって、重要になる。スライドが聴衆によく見えるように、スライドを少しでも聴衆に近づけたい。ホワイトボートが役に立つ。会場係に頼んだ。“イエス、サー”大きな声で、まるで、自衛隊かガソリンスタンドの御兄ちゃんである。気持ちが良い返事である。でも、大きな違いがある。彼らは、元気な返事だけで、何もしてくれなかった。いい訳すらなかった。最後の発表の日、壇上に立つと、初日は大入りだった聴衆が、2-3人しかいない、夢だった。ベッドに座り、現実にならないことを祈った。最後の日も聴衆は大入りだった。脳波のアーチファクト(ノイズ)の講義中、スライドで脳波を提示し、 QuestionWhat is this?, 聴衆の1人が答えた。 [アーチファクト]、 私は返した。「Of course it is artifact. Because I am talking about artifact.」 皆、どっと笑った。一瞬、戸惑った。なぜって、皆が私の英語に笑ったからだ。少しは、うまくなったのかな。でも、まだまだです。講演の後質疑応答がある。最後の人が長くしゃべって、何を質問しているのかわからない。傍で聞こうと、「Please say again]と言って、壇上を降利用とすると、笑われた。「ありがとう」と感謝の言葉を長々としゃべっていたようだ。

 現地の食事は、茶色で、唐辛子の赤が混入し、見るからに辛い。青ネギかピーマンと思って、喜んで、ガリと噛んだら、口の中に爆竹を入れられたように大騒ぎ。唐辛子であった。その後、食べる前に、あまり辛くないものは、どれですか?と聞くようになった。
さほど辛くない食事は美味しい、でも腹が張り、必ず下痢をする。残念だが、発表の日の朝食は、コーンフレークと果物だけにした。昼食時は、左手で食べなくてはならない。それも素手である。私は、左利きだから困る。なるべく、フォークや箸を使い、左手を使うときは、周りの方に「
Sorry, I am left handedness (左利き)」と言って、食事した。それでも、講演の後は、あんなに人が寄ってきて、写真撮影依頼されてたのに、食事中はだれも寄ってこなかった。左手で、子供の頭をさすったら、厳格なイスラム教徒から、殺されても文句は言えないらしい。トイレには、水道と30cm大の水瓶があるだけである。
tilet田舎では、水道は無く、水瓶だけであろう。水を手にして、大便の後始末をするらしい。紙はない。「どうやって乾かすのか?」と聞いたが、苦笑いして。教えてくれなかった。自然乾燥だろう。なるほど、左手が不浄であることに納得した。

 都会の交通はむちゃくちゃである。法律よりも宗教、慣習を重んじる国だからだそうだ。バイクの3−4人乗りは当たり前、バスは、日本で一時流行したトラック野郎の車よりカラフルで、屋根も立派な乗車席であった。一見豪華に見えるが、極めて、おんぼろで、窓ガラスは無く、錆ついて、よくぞ走ると感心させられる。バス一般のタクシーは50ccのバイクを改造し、屋根がある3人乗りのオープンカーである。中央分離帯があり、片側3車線なのに、なぜか、進行方向から車、馬車、人まで、向かってくる。道は、でこぼこ、大きな穴があいていて、そこを走れば、車は確実に引っくり返る。だから、外傷性てんかんが多いらしい。主催者の女性医師の車の助手席に乗せてもらったとき、思わすシートベルトをしようとしたら、パキスタンで装着している人はいないよと笑われた。占めるのをやめた。下車したとき、窓の上のトッテを持った手に汗がにじみ、手のひらに握り締めた痕がついていた。「武士は食わねど高楊枝」のつもりだった。女性ドライバーは、私のくだらない武士道など、無関心であった。 現地の日本人が、話していた。「日本人が、人をひいてしまったので、知人に電話して、状況を話した」 すると、「あなたは悪くないのだから、逃げなさい、その場にいたら、袋叩きに会いますよ」 ほんとうかな?

 イスラムの世界では、裕福な方は、貧しい方に施さねばならない。病院も半分は国が建て、のこりは寄付でまかなっている。寄付がまだ集まらないので、2階建てなのに、2階は塗装もされていなかった。道端で、足のない人に、御金を車の窓越しに上げている場面によく出くわした。いやいや顔ではない。これもアラーの教えなのであろう。生活のため、親が、子供の脚を切ることがあるらしい。信じられない。

 観光をする余裕はなかった。発表の前日に、私を呼んでくれた先生が、私に講演してほしい内容を追加してくれるからだ。私が何でも知っていると誤解しているのか、私にかかった経費を取り戻したいと思っている、かのどちらかであろう。依頼は数分もかからないが、、調べたり、スライド作りなど、準備に数時間かかる。だから観光は、ホテルの周りの散策と、会場とホテルの途中でしかしなかった。

 北に位置するラホールは、カラチに次ぐ第2の都市であり、芸術と文化の中心として、歴史的に重要な町であった。せっかくだから、ホテルに着く前に、城跡を回った。もう、真っ暗であった。ラホール最古で最大のイスラム王朝の城跡に案内された。城の中には豪華な総祝物があるらしい、門の前で記念写真を撮った。フラッシュがたかれた。入り口や、城壁が高いことは写真を見て感心した。

 アラブ海は、砂浜が悠然と続き、その中に、ラクダがのんびりと歩いていた。アラブと初めて実感した。日向ぼっこしている方に、ラクダと海辺をバックに、運転手と私の2人の祈念写真撮影を頼んだ。ピースでもしようかとしたとき、運転手が私の手を握り締めてきた。おもわず、振りほどいた。写真には、笑顔ではなく、びっくり顔が映っていた。結婚以外で、男性が女性に手を出すなど、大罪である。田舎では、アラーにそむいたと、家族からも、石を投げられ、殺される。男はお咎めがないらしい。唯、4人の男性が、女性の罪を訴えた場合、女性のみ大罪となるが、4人のうち一人でも認めない場合、男性であろうと訴えた人が罪を受けるらしい。イスラム社会に日本女性が嫁ぐことがあるらしいが、実態は悲惨であるらしい。厳格な家族の女性は思春期を過ぎると、スカーフをまとい、目だけしか見せない。そして、両親が選んだ男性と結婚する。これをアレンジ婚というらしい。日本に初夜という言葉がなくなって久しいのに、まだ、半数のカップルは両親が選んだアレンジ婚である。恋愛結婚も多くなりっている。これはラブ結婚というらしい。これ等は、ホテルの部屋を清掃に来た30歳ぐらいの女性から聞いた。イスラムのベールを身にまとい、顔は全部出していた。自分のことをcoolといって、私の携帯の電話番号を聞いてきた。翌日から、私は、別の都市に移動するので、その夜は胸が高まり、1日5回、町中に鳴り渡るコーランの祈りの音楽が残聴のようによみがえって眠れなかったが、家内を思い出すと、いつのまにか寝ていた。モーニングコールで目が覚めた。期待した私(男)に苦笑い。ここはイスラム社会だよ。彼女が殺されたらどうするの。

  街角で、交通状況がめちゃいくちゃな状況を写真に撮っていたら、拳銃を向けられ、何をとっているのだと、またまた、怒られた。防犯がもれることから、警備状況を撮られたくないらしい。ホテルに帰っていると、後ろから、声がかかった。トイレの場所を聞かれた。肩を上げ、「I do not know」と答えた。髭をはやしてることもあり、すでに、現地の人になっていた。

 現地の人に、何故、日本は素晴らしい発展を遂げたのかと、よく質問された。私の答えが2つある。一つは、日本は、お母さんの教育度が高いからだ。パキスタンの都会で、学校にいける人は5割、田舎では3割らしい。さらに、田舎の女性はほとんど学校には生かしてもらえず、識字率は低い。お母さんは、子供と一緒にいる時間が長く、躾の大部分を担う。お母さんが字を読めないことは、子供の教育にプラスにはならない。もう一つは、自国の言語を大切にし、全ての教育活動が自国の言語で、行なわれなければならない。現代の教育に適用できない、昔の言語に回帰するのではない。ハングル文字のように、現代教育に適応できる自国の言語を作ることである。幸い、日本では、医学にしても、西欧の最先端技術が、日本に、日本語で紹介される。これば、英語が堪能な日本人医師がおこなっているから、すごい。これが、日本に英語で紹介されていたならば、日本の発展はなかったであろう。つまり、日本で、もし、英語が第2の公用語になっていたならば、パキスタンのように、アメリカが自由にのさばる社会となっていたであろう。もちろん、これからは違う。世界はグローバル化しているので、英語が商談に必要不可欠になってきたので、小学生の頃からの英語教育が大切である。が、同時に、すべてに対応してきた日本語も、なおさら大切にしなければならない。これが、日本が発展した第2の理由である。話はそれるが、日本の英語普及を妨げているのに、カタカナがある。少なくとも、lとr、thとs、bとvのカタカナを変えるべきである。例えば、rは「」、lは「リ」としたらどうだろうか。

 現在、女性を含む教育と日本を大切にする心が、ともに失われつつあることに、遺憾の念を覚えています。

  最後に、私の医者としての、軌跡の一つは脳波である。私のこれまでの脳波に関する知識を生かすことの出来る場を与えていただいた日本およびパキスタンの学会関係者に心からお礼を申し上げます。

author:neshiryu, category:医療, 18:46
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