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東日本大震災支援
 

 東日本大災害に3月25日より3泊4日で医療支援に行ってきました。その時の状況を詳しく記載しました。時間がある人は読んでみてください。
 

東日本大震災が起きた。津波の空前の破壊力にCDの世界を見るようであった。さらに、原発事故は日本の将来の方向性を変えるであろう。多くの日本人が涙した。私は、久留米医師会や日本てんかん学会の医療救援の募集に応募した。私は、阪神大震災の時、医療支援の募集に応募し、その指示に従い、被災地に行ったが、すでに危険な状態を脱した後で、被災者の具合を見ただけで、何も役に立てなかった。まるで、視察であった。

 テレビでは、お母さんを亡くした、女の子が、「おかーさん、おかーさん、おかーーさん!」と叫んでいた。別の子は、「お母さん、どこに行ったの、明日帰ってきてね!」と、紙切れに書いていて、避難所で、うずくまって、座ったまま眠っていた。自衛隊、警察、消防隊、献身的な働き、中には、家族を亡くした人も多い。原子力発電所の復旧にかりだされた消防隊の妻が、「いかないで!」と泣いていた。目が潤んだ。どうしようもない。
 現地の子供にテレビ局が聞いていた。「なんになりたい? 」、子供は、「大工」と答え、どんな町を作りますかという質問に、「やさしい町」と答えた。55歳になって、また、涙腺が緩んでいる。医師会や学会からの指示を待っていた。
 そこに、娘からメールが来た。一言、「お父さんも支援に行くの?」、娘も、私と同じ気持ちで、何とかしてあげたいのだ。医者でない娘は募金や支援物資を送ることしかできないが、医者の父にはなんとかしてほしいのだ。決めた、「行こう!困っているときに行ってこそ、医療支援だ! でも、行く交通手段がない。飛行機で行っても、レンターカー会社は閉鎖されているし、ガソリンもなく、帰ってこれない。「だめだ! そうだ、学会に頼んでみよう] 電話で尋ねた。だめだった。[そうだ、大手の製薬会社がある] 頼んだ。またまた,だめだった。目がうつろになり、諦めかけていたとき、妙案が浮かんだ。「できた! これはできる」

 久留米から福岡の飛行場まで、空港バスで行くことにした。妻に時刻表を調べてもらっていた。バスを待てどもこない。バスの時刻表が新年度で変わっていたからだ。あわてて、妻の車で、飛行場に連れて行ってもらった。間に合わない。携帯で旅行会社に問い合わせたところ、予定の飛行機に乗れなければ、飛行機が取れるのは2日後という。妻を急がせた。妻は、「行くなってことよ」と言った。「でも、代診もお願いしてきたのに、リュックお背負って、病院に帰りたくないよ」と、泣きそうになった。14分前に飛行場に着いた。搭乗手続きをした。間に合った。列に並んでいると、グランドホステスが、「音成さま、音成さま、いらっしゃいますか」 「はーい」と大きく手を上げた。トランクは薬で、危険物で一杯なのに、係員は信用してくれ、ゲートはフリーパスであった。グランドホステスと一緒に走った。一緒ではなく、遅れること、30mでついていった。4日分の食料(パン、カロリーメイトなど)と水、寝袋、防寒具などが入った登山用のリュックを肩に担いで走った。最近は、聴診器より重いものは持つことはないし、走ることもなく、歩くのは駐車場から病院までの40mほどだ。脚が前に進まない、乳酸が足の筋肉にたまっていくのが分かる、先を走っているグランドホステスが、私が側を走っていないのに気づき、手招きをする。飛行機の座席に座ったときは、すでに、疲れた。「大丈夫だろうか?」 自分でも思いやられる。福岡空港より伊丹空港で乗り換え、岩手県の内陸にある花巻空港に降り立った。花巻市では、レンターカー会社が閉鎖されている。被災が軽微であった盛岡に鈍行のJR北上した。途中、強い余震があり、点検のため、30分ほど停車した。なぜか、待つ時間が気にならない。震災の中にいるというモードに入っているのだろう。実際に盛岡についたのは、久留米を12時に出て、22時であった。その日はホテルに泊まった。ネットでは、豪華な朝食の写真が載っていたが、地震の影響で、クロワッサンと小さいコッペパンの2つとコーヒーであった。パンは2つ以上取らないようにと掲示されていた。レンターカー会社で、予約していたハイブリット車を借りた。これが、みそである。満タンで700km走るので、充分帰ってこれると安心した。レンターカー会社の方が岩手・宮城の主な避難所のリストを用意していてくれた。というのは、私が、レンターカー会社に、医療支援に行くということを告げていたからである。

 陸前高田市に向かった。途中、雪が降り出した。山道で険しい、60kmを出したら、スリップし、対向車線の車が迫ってきた。相手のメガネびっくり顔が近づいた。すり抜けた。「よかった、これはレンターカーだよ。50キロ以上ださないで走ろう」と何回もつぶやいた。おかげで、4時間を要した。最大の避難所である第1高田中学校に向かった。ナビでは、高田駅を右折とあるが、何もない。

道なりに直進とあるが、池が出来ていて、途中まで行くが、深くなり、水が迫ってきていると錯覚し、あわてて、バックで引き返した。目的地にたどり着くまで、何度バックしたか分からない。
結局、地元の方に案内してもらった。目の前に見えているのに、内陸部から山越えだ。

 避難所では、私を、保健課の男性課長が対応してくれた。敬語を使ってしまったが、30代だろう。私は、「てんかんやパーキンソン病の患者さんは、薬がなくて困っている。外見では分からない。神経内科専門医が診る必要がある。てんかんは重積状態といって、けいれんが続き命の危険にさらされることがある。誰か私と一緒に避難所を回ってくれないでしょうか?」、課長は、「だめです」と答えた。私は、しかたないから、譲歩して、「では、主な避難所までのルートをおしえてくれませんか?」と地図を出した。課長が、何にかを、くどくど言い始めた。何をいってるのかからない。私はあせって、「yesですか、noですか?」と聞いた。答えは、noだった。「明日、別の責任者が来るので、明日もう一度きてください」、耳を疑った。私は、何のために、薬を自腹で購入し、100人分の薬が入った重いトランクを持ち、大きなリュックを背負って、はるばる九州からきたのだろうか。課長は、私のことを、「一人で来るなんて、、胡散臭いやつ」、と思ったのかもしれない。思いもよらぬ展開に、うなだれ、車に戻り、久留米医師会で作ってくれた病院の十字のマークを車の窓に貼り、白衣を着て、避難所を単独で回ることにした。なんと、これが奏功した。案の定目立った。困っている人やマスコミが寄ってきてくれたし、なにより信用してくれた。

 避難所の一つの老人ホームにたどり着いた。そこのケアマネジャーが私を理解してくれた。薬がなくて困っているパーキンソン病患者宅や避難所に案内してくれた。夜は、避難所の患者を診た。

 耳の聞こえが悪いおばあさんを診察した。診察の最後に、私は、親指と人差し指で○をつくり、OKだよと、言った。おばあさんは、うなずき、施設の方に、連れ添われて自分の寝床に戻った。突然、笑い声が聞こえた。そのあと、「私が払っとくからね」と、施設の方が言っていた。おばあさんは、「先生にいくら払えばいいかね?」と尋ねたたらしい。私の指の○は、お金の請求に見えのだ。

 しばらく、ホームのスタッフと話した。見るからにふくよかな女性スタッフが、「先生の寝袋に一緒に入ってあげる。暖かくなるよ」、笑いながら言った。続けて、「ここで仕事しているほうが気がまぎれる。だって、帰る家はないんだから」。「・・・・」 また、作り笑いで、「先生、ここにいてよ。私が面倒見てあげるから」、と別の女性が言った。「だめだよ」と断ると、「断られたと」 先ほどの女性が笑い転げていた。あわてて、「九州にも患者さんが待っているからですよ」と言いわけした。 その女性は、「私の家も流されて、行くえ不明!、・・・・・」、涙が落ちていた。

 車で、寝袋に寝る準備をしていた。寒い、久留米で購入した防寒具が役に立たない。お店の人は、大丈夫と太鼓判を押していたのにである。ケアマネの方が来て、避難所で寝させてくれた。10pmには皆眠る。眠ったことのない時間である。11時に眠りにつき。3amに目が覚めた。眠れない、トイレかなと思い、トイレに行くために、外に出た。冷気に身震いした。満天の星空で、懐中電灯がいらなかった。オリオン座、北斗七星が、近くで光っているようで、手を伸ばせば星に触れそうであった。30mほど離れたところにある仮設トイレから帰ると、目がさえ、もう臨戦態勢になっていた。眠れるはずがなかった。朝まで、一睡も出来なかった。朝、車に戻ると缶ジュースが凍っていた。車で寝なくて良かった。

 翌日は、ケアマネの方と、小さな避難所を回った。大規模の避難所には日赤の医師が診療しているから、神社、お寺、公民館など、医療が行き届いていない場所を回った。1箇所で5~6人診察した。「どこからきたの?」という質問に、「九州の久留米です」と告げると、一斉に、「ワー」という驚きの後、「早く治そうね」と笑って言ってくれた。家族がなくなった人たちからである。また、龍司の涙腺が緩んだ。

 携帯にメールが入った。日本てんかん学会の理事の先生からだった。対策本部に行って、てんかん学会の震災支援ホットラインを開設してくれという依頼であった。陸前高田の対策本部に出向き、その旨を伝え、各避難所にチラシを掲示するように頼んだ。また、続けて、日本てんかん学会よりメールが来た。 メールには、北に kmほど離れた釜石市でも、てんかん支援ホットラインを開設してほしいという依頼と、連絡が取れないてんかん児たちのリストが書かれていた。避難所にある沿岸部を北上した。急遽、通れるようにした道と雪で渋滞した。車の流れが速いときは、目的地に着くことで頭がいっぱいだが、渋滞で、瓦礫の山の中にいると、放置された車、流された船、跡形もなくなっている景色に、身震いをしながら、まだ、震度5以上がおきる確率が5割と言われていたことを思い出し、「もし、津波はきたらどうしよう、よし、車を放置し、あの高台まで駆け上ろう、でも、体力があるかな、交差点で、途中で信号が赤になっても、早足の気持ちを見せるだけ! 駅の階段でも脚が重くなるのに、レンターカーが壊れたら、弁償かな、」など、めちゃくちゃに、いらぬことを考えてしまう。

結局、パトカーに先導してもらい、釜石市の対策本部についた。20時頃だった。かけあって、これらを広報をするように頼んだ。つまり、患者名を掲載し、医療支援電話番号を記載しておく。各避難所に掲示する。それを見た患者が、そこに電話すれば、どこで薬をもらえるかが、分かるというのだ。女性が医療本部の責任者であった。その女性は忙しく指図していた。そこに分け入り、メールでの依頼事項を告げた。しばらくして、了解し、行動してくれた。ありがたい。やっぱし、陸前高田市のケアマネ、対策本部の責任者は女性である。

 短い医療支援で、申し訳なく思っている。翌日、泥塗れになっているレンターカーを返した。泥塗れで、少々の傷があっても分からない。でも、笑って引き取ってくれた。私が、リュックを軽くすることもあり、残った非常食(ヲーターインゼリー、カロレーメイツ、チョコなど)を差し出すと、喜んでくれ、電車の時間まで、インターネットを使わせてくれた。

 
 東北の皆さん、私が体験し感じたことの、数百倍、いや数千倍もの大変な状況にあると思います。どうぞ、負けないでください。

author:neshiryu, category:医療, 10:55
comments(5), trackbacks(0), pookmark
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Comment
私は気仙沼で福祉に携わるものです。3/11から医療はすぐに必要でした。高齢者など体力がない者はどんどん亡くなり、比較的緊急性が無くなってから、やっと医療が入りました。それは何故か?予め用意されたシステム上でしか活動出来なかったからです。医療が入ってからも、的確な情報を持ったスタッフとのコンタクトがとれなかった為、医療は空回り状態ですよ。私の地区の場合、本当に医療が必要な人は在宅にいたのに、避難所ばかりまわってました。もったいない事でした。
ケセモイ, 2011/04/23 4:13 PM

初めての逆・援・助で7万ゲットォォォォ!!!!
http://vsx19zv.lady.kim-yona.info/vsx19zv/

ぶっちゃけ経験ゼロでもなんとかなるもんだなwwww
女に全部おまかせして、ほとんど寝てるだけだったぞwwwww
パトラッシュ, 2011/05/05 3:17 PM

モデルの卵とか、アイドルの卵とか。
流石に現役のAKBクラスのは無理かもしれないけど、
意外と卵クラスの方が可愛いくて会えたりするんですよね!

俺はこういう所で探して、時々食ったりしてる。
http://u-432-7.achy.akb4488.info/u-432-7/
CP, 2011/05/27 9:35 PM

買ってくだちゃい☆ってチ※ポの写メ送ったらソッコー食いついた件www

30年ずっと童☆貞のオレがこんな簡単に初体験できるとわ!!!!(*゚∀゚)=3

まぁ報酬に10万もらったのが一番ビビったんだけどなwwww

http://aazezfy.mix.k-j-pop.me/aazezfy/
ふにゃバット, 2011/06/02 12:49 AM

さみしいとき
あるよね
http://ng-lntn.t.monju.me/ng-lntn/
みっくみく, 2011/08/26 9:00 PM









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